テルラーネル・クラシッコ 2006

イタリアの白。瓶の形はまるでドイツワインみたいにスマート。葡萄品種はピノ・ブラン主体で、あとはシャルドネソーヴィニヨン・ブランだとか。価格は2000円ちょっとのお手頃ワイン。
非常に爽やかな香りが印象的。ソーヴィニヨン・ブランのような青臭い感じではなくて、林檎の花みたいな、華やかだけど、軽やかで清潔感のある花のような芳香。

味わいはこれまた軽やかな果実の甘さなんだけど、決して軽すぎない。むしろぎゅっと凝縮した果実の味がする。でも重々しく舌に残るではなく、飲んだ先から空気に溶けるようにあわく消えていく。切れの良い、飲んだ後からまた飲みたくなるタイプのワインです。個人的にはドイツのリースリングっぽい感じがしました。

しかし気持ちよさにまかせてこぷこぷと飲んでいたら、案の定翌日は二日酔いに……。
やはり2本飲みは危険だ。

フィンラ・モア セントラル・オタゴ チャード・ファーム 2006

久々のニューワールド。
もらいもののNZワインなので、値段は分からず。色はやや薄い感じの、でもクリアなルビー色。香りもピノらしい華やかさ。味も上品で、あまりニューワールドって感じがしない。失礼な言い方かもしれないけれど、カベルネメルロー種だと、ニューワールドワインはどうも、あの“日に焼けすぎた”甘さが気になって好きになれない。
その点ピノ種はそれほど違和感なく飲める気がする
。もちろん味の善し悪しはあるけれど、これはなかなかピノらしい果実の甘みと品の良さを併せ持ったワインではないかと思います。
ただ若飲みのせいか、かなり軽かったんですけどね。おかげで2本目に突入してしまいました。

そして2本目。

『SONATEN』 水谷上総(ファゴット)・小倉貴久子(チェンバロ)

私が「横顔の貴公子」と呼んで密かにお慕い申し上げている水谷上総さんのアルバムがこのたび発売となりました。
知らない人は何のことだかでしょうが、水谷上総さんとはN響主席ファゴット奏者で、私がここのところ毎週欠かさずN響アワーを見ている原因の一人であります(もう一人はH・ブロムシュテット)。
ミクシにもコミュニティがありますが、入りたいけどちょっとのぞいたら皆さんちゃんと音楽やってる人みたいで、ミーハー根性の自分としてはためらってしまう。

なぜ「横顔の貴公子」かというと、N響アワーでは必ず横から映るんですが、この横顔が大変に端正でいらっしゃるんですね。ていうか横顔しか見たことなかったんですが。
このたびアルバムで正面の姿も拝見いたしましたが、なかなかどうして正面からのお顔も素敵でした。
でもなんと言っても私の心をがっちり捕らえて離さなかったのは、ライナーノーツ中程に載っていた立ち姿の横顔写真! 大きなファゴットを抱えて姿勢正しく演奏する姿は、まるでバリトンサックスを自在に操るジェリー・マリガンみたいに格好良かった。

で、肝心のアルバムの中身ですが……えーと、ファゴットの牧歌的な音色と、バックに流れるチェンバロのかそけき音は、何というか鈍行列車でごとごとと旅をしているような気分になります。
大してスピードが出てない上に、ずーっと田園→山→田園的同じ景色が続いているような、かといって退屈かというとそうでもないよな……。
すみません、ファゴットソナタをちゃんと理解するには、まだまだクラシックの修行が足りないようです。でもファゴットの音は、なかなか聴いていて心地よい気分にさせられます。ごとごと。

それにしてもこのアルバム、手持ちのネットワークウォークマンに入れると、どの曲聴いてるか分からなくなる。
だって全部曲名が「ファゴット通奏低音のためのソナタ」なんだもん。
困ったもんだ。



そんなこんなで本日のワイン。

Case Corini Barbera D'asti La Barla 2003

カーゼ・コリーニさんのところのバルベラ・ダスティ2003年。イタリア、ピエモンテでは屈指の自然派ワインだそうで。値段は5000円ちょっと。

抜栓直後は、自然派ワイン独特の(と私が感じている)あの素っ気ない感じの香りがしたんですが、グラスに移すと、すぐに華やかなバニラの香りが広がってきました。味は全体に濃厚。果実味もベリー系とかではなく、カシス系のやや濃ゆい甘さが感じられました。バルベラ種を普段飲まないので、これがバルベラのスタンダードなのかは分かりませんが、とりあえず『洗練』とはかなり遠いところにある味なのは確かです。いや、非常に美味いんですが。

一言で言うと「土臭い味」というのがぴったりくる。ピノ・ノワールの持つソフィスティケーテットされた味わいや、カベルネ種のような、マホガニー製の家具みたいな重厚さがある訳ではない。でも、地に足の着いた、しっかりとした強さが感じられる。例えるなら田舎の純朴な青年みたい。都会的な、技巧に走る感じのアピールじゃなく、あくまで直球勝負というか。やや野暮ったく感じられる甘さも、くすんだ赤の色合いも、「こういうのって別に好みじゃないんだけどな」と思いながらも、その飾らない人柄の現れのようで、何となく好感を持ってしまう、そんな味です。

音楽でいうと難しいのですが、ごく個人的にはミッシャ・マイスキーのチェロがこれに近いかなと思います。

もちろんマイスキーの音は充分洗練されているのだけれども、チェロ独特の暖かみのある音が、このワインの土臭さを彷彿とさせる。
ただ、同じチェロでも決してロストロポーヴィッチではない。ロストロポーヴィッチのような、あの泰然自若とした、大河の流れのような悠々たる感じはこのワインにはない。もっと素直ですり寄ってくる感じの、言ってしまえば、あまりあれこれ考えずに楽しめる類の音楽であり、ワインなのだという気がする。

マイスキーにしろ、このバルベラ・ダスティにしろ、最初に聴いたり飲んだりしたら、まずたいていの人が好きになるタイプでしょう。非常に高いクオリティを持っているのに、来るものを拒まない敷居の低さがある。でも、じゃあ「これが一番好きなの?」と聞かれると、やっぱり求めているのはこれじゃないということに気づいてしまう。ええそうです、私はロストロポーヴィッチのほうが好みです。

松井冬子展に行ってきました。

machi20042008-02-25


ビル風に吹っ飛ばされそうになりながら、九段にある雑居ビルの2階のギャラリーに向かう。ガラス張りのドアを覗き込んだ途端、ガラス越しに、今まさに外に出ようとしていた松井冬子さんと目が合った。写真のとおり(当たり前だ)、超美人な方でした。ドア開けて中に入れてくれた。いい人だ。

5人も入ればいっぱいになってしまうような小さなギャラリーだったのと、土曜の最終日ということもあって、あまり落ち着いて見られなかったのが少し残念。やっぱり画廊は平日の仕事の合間にふらっと立ち寄るか、予約を入れるのが正解ですね。

飾ってあった作品は五点(あと販売用のコピーが二作品)、いずれも絹本着色の掛軸仕様(一つだけ額入りのがありました)。

どの作品も、美しさとグロテスクさ、端正さと混沌というアンビバレンツな感情を呼び起される感じがした。ただ思っていたよりもドロッとはしていなかったな…というのが正直なところ。世間には(芸術的価値の高低とは関係なく)カンバスの布目から作者自身の狂気が滲み出てくるようなタイプの作品があるけれども、彼女の画にはそれは感じられない。もちろんある種の怨念や情念のようなものは充分読みとれるのだけれど、それはあくまでも「作品」というフィールドの中で描かれているというか、鑑賞者に必要以上のエモーションをぶつけてこないというか。

あくまで個人的な意見としては、芸術作品とは右脳と左脳の双方を均等に使いながら鑑賞するものだと思っている。例えば絵画であれば、作品を最初に目にした際の言葉にならない衝撃を右脳で受け止めながら、同時に、それが作品のどこからもたらされるのか、構成か、色彩か、テーマか、左脳で冷静に分析するということが、自分にとっては真摯に作品と向き合う姿勢だと考えている。だから、作者の感情的な部分が全面に出ている作品というのは、後者の作業をひどく困難にするので、あまり得意ではない。松井さんの作品は、変な言い方だけれど、安心して作品の持つ狂気に没頭できる、そんな気がした。

個人的には『Narcissus』が好きな作品です。最初は水仙の形を保ちながらも、徐々に自壊していく様は、自己完結の極みの姿を見ているようで、自閉気味の人間としてはたまらない。


そして本日のワイン。

何だか偉そうなタイトルですが。

machi20042008-02-19


最近すっかりシャンボール・ミュジニーの魅力にとりつかれてしまい、気がつくとミュジニーばかり飲んでいる。いかん、金が持たない。
というわけでアミオ−セルヴェル2001 レ・シャルム。
今度はプルミエ・クリュの畑なものでお値段やや高め。確か8000円也。

しかし確かに前回のエルベ・ルーミエより美味い。求めていた『シャンボール・ミュジニー』像に近い味がする。雑味が全然なくて、軽やかだけど、でもしっかりした果実味があって、そして何より品がある。時間が経つほど味のまろやかさは増していくんだけれども、決して甘さに崩れない。

シャンボール・ミュジニーを思うときイメージするのはいつも、控えめだが品のいい貴婦人だ。とびきり美人というわけではないし、強烈な個性があるわけではないけれど、春の光のような暖かみと、芯の強さを併せ持っている。その地味さに物足りなさを感じる人も少なからずいるだろうけれど、私はこのある種の『抑制の美』を感じさせる味が好きだ。

ブロムシュテットの演奏にこれと相通じるものを感じる。
先日モーツァルト交響曲40番と41番がやってきた。その前にカラヤンのそれを聞いていたのだが、あまりの印象の違いに同じ曲とはちょっと思えなかった。特に41番。カラヤンの威厳たっぷりな演奏もまあ悪くないのだけれど、ブロムシュテットの天女の羽衣みたいに軽やかな演奏には、きっとモーツァルトはこんな風に奏でて欲しかったんじゃないのかな、と自然に思えた。
私は音楽のことは何も知らないし、また上手く言えないのだけれど、「ことさら」感が何もないのだ。「ことさら」華やかに演奏しようとか、「ことさら」重々しくしようとか、そういった余計な付け加えが感じられない。作曲者の意図を忠実に、ある種の抑制と品性をもって追求したらこの音楽の形になった、そんな自然さがこの演奏にはある気がするのだ。

まあ、これも私がブルゴーニュ贔屓だから音楽にもその傾向が現れているだけかもしれません…タンニン多めのカラヤンの演奏のほうが、ボルドー好きには好まれるのかも(そうか?)。

そういや前回ジャンvs千秋をカラヤンvsブロムシュテットで比較したけど、ジャンはどちらかというとプレヴィンあたりだな、やっぱり。どれ聴いても何となく気持ちいい感じとか

ブロムシュテット日記

相方に頼んでいた、ベートーベン交響曲第6番とドボルザーク交響曲第8番が佐川さんの力を借りて届く。
ついでに頼んでいなかったペール・ギュントも届く。
早速聞き比べようと思ったが、うちにはカラヤンのベト6はないとのこと。

相方曰く、
「代わりにうち、カラヤンならモーツァルトの40番と41番があるからさ、そっちで聞き比べろよ。ブロムシュテットの注文しておいたから」

どんだけ買えば気がすむのだ。

でもちょっと楽しみ。