松井冬子展に行ってきました。

machi20042008-02-25


ビル風に吹っ飛ばされそうになりながら、九段にある雑居ビルの2階のギャラリーに向かう。ガラス張りのドアを覗き込んだ途端、ガラス越しに、今まさに外に出ようとしていた松井冬子さんと目が合った。写真のとおり(当たり前だ)、超美人な方でした。ドア開けて中に入れてくれた。いい人だ。

5人も入ればいっぱいになってしまうような小さなギャラリーだったのと、土曜の最終日ということもあって、あまり落ち着いて見られなかったのが少し残念。やっぱり画廊は平日の仕事の合間にふらっと立ち寄るか、予約を入れるのが正解ですね。

飾ってあった作品は五点(あと販売用のコピーが二作品)、いずれも絹本着色の掛軸仕様(一つだけ額入りのがありました)。

どの作品も、美しさとグロテスクさ、端正さと混沌というアンビバレンツな感情を呼び起される感じがした。ただ思っていたよりもドロッとはしていなかったな…というのが正直なところ。世間には(芸術的価値の高低とは関係なく)カンバスの布目から作者自身の狂気が滲み出てくるようなタイプの作品があるけれども、彼女の画にはそれは感じられない。もちろんある種の怨念や情念のようなものは充分読みとれるのだけれど、それはあくまでも「作品」というフィールドの中で描かれているというか、鑑賞者に必要以上のエモーションをぶつけてこないというか。

あくまで個人的な意見としては、芸術作品とは右脳と左脳の双方を均等に使いながら鑑賞するものだと思っている。例えば絵画であれば、作品を最初に目にした際の言葉にならない衝撃を右脳で受け止めながら、同時に、それが作品のどこからもたらされるのか、構成か、色彩か、テーマか、左脳で冷静に分析するということが、自分にとっては真摯に作品と向き合う姿勢だと考えている。だから、作者の感情的な部分が全面に出ている作品というのは、後者の作業をひどく困難にするので、あまり得意ではない。松井さんの作品は、変な言い方だけれど、安心して作品の持つ狂気に没頭できる、そんな気がした。

個人的には『Narcissus』が好きな作品です。最初は水仙の形を保ちながらも、徐々に自壊していく様は、自己完結の極みの姿を見ているようで、自閉気味の人間としてはたまらない。


そして本日のワイン。