たまには日本酒も

saburou


すっかり日も長くなってきた今日この頃、春の柔らかな夕暮れの空気には、ワインよりも日本酒が似合うような気がします。

活性にごり酒 さぶろう
奈良の中本酒造のお酒。もろみがそのまんま入っていて、酵母がまだ生きているため、瓶詰めした後も発酵が続いてます。
乳酸菌のおかげか、ふくよかな日本酒の甘さの中にさっぱりとした酸味があり、また発砲しているもんだから口当たりはさらに爽やかに。大人のカルピスって感じです。
相方と二人で縁側に腰掛け、薄桃色からグレーに染まりゆく空を眺めつつ、ゆるゆると飲みました。穏やかな春の日。



■表現という作業は基本理性の営みだと思うのですよ

ETVが松井冬子さんの特集だったので興味深く観る。私が成山画廊で彼女の絵画から受けた印象そのままの内容だったと自分では感じた。
この人自体はおそらく、「深い闇」とか「底知れぬ狂気」のようなものは持っていないのだと思う。確かに彼女の絵には「痛み」があり、「呪詛」もある。が、それ以前にまず美しいし、何より観る者を狂気の淵に引きずり込むような、例えばゴヤの「我が子を食らうサトゥルヌス」のような印象は受けない。
もちろん彼女の内側にも「闇」や「痛み」はあるのだろう。(というかむしろそれらを持たずに生きている人がいるのだろうか?)でもそれは今まさにぱっくりと口を開いてじくじくと血を流しているものではなく、「記憶」ないしは「痕」でしかない。そしてその痛みの記憶を「あれは何だったのだろう?」と、時折カサブタを爪の先で剥がしながら理解しようとしている、そんな風に思える。つまり、痛みを糧としながらも、精神の活動としては、とても理性的で健全な営みのもとに作品が生み出されていると思うのだ。
あの写実への徹底したこだわりや、一心に解剖図をスケッチしている姿はまさにそれを裏付けていると思う。
だからこそ、私は松井冬子という人に期待する。深淵の向こう側を覗き込んで帰ってこられるのは、己が闇に生きるタイプの人間じゃあない。命綱をつけたタフな人こそが、作品を引っさげて深淵から戻ってくることができるのだ。

そういう訳で、私にはあのインタビューは正直失敗にしか見えませんでした。何だかなあ、この人から「あなたの中にある痛み」とかそういうことを聞き出そうとしても何も出てこないよ、と思ったら案の定でした。
特に上野千鶴子氏。何でも自分のフィールドに引っ張り込んで論じるのはいかがなものかと。びっくりするくらい噛み合ってないように見えました。
一番引っかかった質問「あなたが幸せになったときの絵を見てみたい」って何だ。
「こういう絵を描く人は精神的に不幸だ」っていう偏見がもろに見えて、正直かなりむっとしました。きっとこの人にはこういう絵に共感する人間も不幸だとか病んでるとか思ってるんだろーなー。