そういう問題じゃない、多分

 新聞記者が音楽について書くと、ロクなことを言わない、の例。

4月7日の朝日新聞、文化総合欄に掲載されていたコラム記事より。

テーマは「ORANGE RANGE」の盗用疑惑に関する世間(特にネット上)の反応についてなのですが、長いので内容を要約すると、

「彼等の音楽について、盗用疑惑が主にネット上で話題になっているが、これはポピュラー音楽ファンが、「作者の顔」を強く求めてしまうからではないだろうか。彼等の音楽を『パクリ』というならチャック・ベリーを『パクって』いないロックンローラーはいないといえるだろうか。かつてのブルーズ・ミュージシャンはメロディーそのものよりも、節回しやギターの独自性を競っていた。「作品」が「作者」へ帰属しなければ落ち着かないという心性は、近代以後の、新しい受容のありようである。」


(以下は引用です)

もちろん、著作権法に反するような行為を擁護するつもりは毛頭ない。ただ、曲を数値化し、「何小節分のメロディーが同じだから盗作」と決めていったら、ポピュラーでいい新曲などもう出ないのではないか。

せっかく目の前で歌っているのに、その節回しやセンスより、「作者は?」「元ネタは?」とつい考えてしまう耳のあり方は、「近代」の思考の枠組にあまりにとらわれているからではないか。そんなふうに思ってしまうのだ。

(近藤康太郎)

 この問題自体についての自分の意見はひとまず留保します。ここで言いたいのはパクリ問題の当否についてではなく、この記事を書いた記者の考察の甘さについてです。

 わざわざホットな話題を持ち出しておいて、この凡庸な結論は一体何だろう。これではまるでパレスチナ問題について論じながら「戦争は良くないと思います」で締めるようなものだ。例えは悪いけど。こんな1ミリも(という言い方も変だけど)頭を使わなくても書けるような記事のために、私は毎月新聞代を払っている訳じゃない。

 この記事の最大の問題点は、ORANGE RANGE(以下OR)をめぐる一連の問題を、いわゆる「パクリ問題」のみに集約して語ろうとしている点にあると思います。
(※個人的には「『作品』が『作者』に帰属しなければ落ち着かない」という問題と、今回の盗作疑惑をパラレルで述べている点もかなり的はずれで問題だとは思うけど、とりあえずそれは置いておきます)

 確かに、巷で「アンチ」と呼ばれる人達のサイトや意見が言及しているのは、そのほとんどが盗作疑惑についてですが、果たして彼等「アンチ」達が、全てのポピュラー音楽についてかように神経を尖らせているかというと、おそらく違うでしょう。
 では何故ORばかりがこれほど標的にされるのでしょうか。例えば「奥田民生ビートルズの模倣の域を出ない」とか、「LOVE PSYCHEDELICOは和製シェリル・クロウ(特にセカンドアルバム)にすぎない」ではなく、オレンジレンジである理由。このネタで記事を書くのだったら、そこを掘り下げていかなければ意味がありません。
(注:私は民生さんもデリコも大好きです。↑のはあくまでも「例えば」で私の意見ではありません。くれぐれも言いますが彼等を「パクリだ」と言ってるわけではありません!)

「盗作疑惑ありとされる曲が多いから」「あまりにメジャーになってしまったから」というのは勿論あるでしょう。しかし、『盗作疑惑あり』とされている曲目の多さやメジャー度でいえば、おそらくB'zのほうが遙かに上です(彼等についても糾弾サイトはありますが、ORほど問題にはなっていないように思う)。
(注:別にB'zが「パクリだ!」と言っている訳ではありません。いや、確かに“憂いのgypsy”とエアロスミスの“What it takes”の出だしとか、“Bad Communication”とツェッペリンの“trampled underfood”とかそっくりなんだけど、というかまあそういうのは枚挙に暇がないんだけれど。とはいえ個人的にはB'zは「アリかナシか」でいえば「アリ」だと思ってます)

 これは全くの一個人の意見だけれど(それを言ったらこのページ全てがそうだけど)、アンチサイトや、アンチ派と擁護派とのやりとりを目にしていて思ったことは、アンチと呼ばれる人達が究極的に問題にしたいのは、実は「パクリか否か」なのではないんじゃないかということです。
 アンチの人達にとって、ORという人達が供給する音に内在する、許せない「何か」が最も先鋭的な形をとって顕れたもの、それが「盗作疑惑」だったのではないか、言ってみれば彼等の問題行動とされている、「盗作疑惑」にしろ、「ファンに対する態度が悪い」「他のミュージシャンを貶す」にしろ、それ自体ではなく、そういった態度から垣間見える許せない「何か」が、アレルギー抗原よろしく、「アンチ」と呼ばれる人達の中の抗体を刺激して、時に過激な糾弾行為に駆り立てているのではないかという気がしてならないのです。
 その「何か」とは何なのかについては、一応仮説めいたものはあるのですが、いい加減長くなったので今回は触れないでおきます。そのうちコラム欄のほうで書くかもしれません。

 もちろん私の考えは的はずれなのかもしれない。アンチの人達は単に「盗作疑惑」自体が許せないだけなのかもしれない。でも、それにしたってこの記事、踏み込みが浅すぎる。少なくとも金を払って読む内容じゃない。
 もともと踏み込むだけの深みがこの問題には存在しないというのなら――そもそも記事なんか書かなければいい。