ロリコンの試金石:『エコール』

巷で噂のロリ映画「エコール」を観る。私はスイッチの、監督のルシール・アザリロヴィックと古屋兎丸の対談で興味を持ったんですが、ロリコン界ではちょっとした話題だったようで。
 以下ネタバレ

 
6歳から12歳までの少女達が、外界とは完全に遮断された深い森の中の、『エコール』と呼ばれる寄宿舎みたいなところで育てられているんですが、彼女たちがどうやってそこに連れてこられるのかは謎。
一応世話係みたいな大人もいるんですが、全部女性でしかも3人しかおらず、どうやって成り立ってるのか全く不明な世界。筋らしい筋もなく、画面の大半は少女達がひたすら踊ったり遊んだり半裸で水浴びしているだけという、お好きな人にはたまらなかろう映画でした。

まあ筋立て自体は正直どうでもよくて、要はこの監督がどんな風に『少女が大人になる過程』ってもんを描いているのかに興味があったんですが・・・うーん、そっちですかという感じ。
少女の描き方があまりにも表層的というか、『お人形さん』的な美しさしか追求していない点にまず入っていけません。
私はロリコンを肯定する気はないですが、「少女」という特殊な生き物に興味を持つという感覚は割と分かる、というか自分自身かなり興味を持ってます。でもそれは一見無垢にも見える幼い表情の裏に、彼女たちがまるで一端の大人のような計算高さや裏切り、媚びや汚さや成熟した女の顔、そういったものを抱え込んでいるというアンビバレンツさに対してである。
町田ひらくの作品や、アラーキーの撮る少女(特に「少女性」の少女達)、古屋兎丸の「ユメカナ」なんかは、きちんと少女の『美しくない』内側が描かれている。ゆえに彼女たちを愛おしいとか、美しいと思えるのだ。
 だけど「エコール」の少女達はどれ一人として美しいと思えなかった。確かに顔の造作は整っている(そうでない子もいるが)。細い脛は雪のように白いし、膝小僧は陶器のようにすべすべして頬ずりしたいくらい。しかしそれは人形の美しさと変わりないし、そういうものには別段心動かされはしない。
 だから年長さんの女の子達が、自らの飯代を稼ぐため、夜な夜なロリコン男達の前で下手くそな踊りを踊っているシーンも、ちーとも綺麗だとは思えず、ただのガキのしみったれたお遊戯にしか見えなかった。

年長の少女達は最後、現実の世界に連れ出され、そこで初めて男(少年)を目にします。そして最初の性衝動を覚えた(たぶん)ところで終わるんですが、このラスト、「少女が大人になった」というよりは、頭のゆるい少女型アンドロイドに性欲だけインプットされたようにしか正直見えませんでした。「ユリア百式」とやってることかわんないじゃん、みたいな。

そういうわけで、ただただ初潮前の少女の表面的な美しさ、無垢さだけを描こうとしたこの映画が、ロリコン受けしたのはよく分かります。性はあくまでも肉体の成長に伴う形でしか目覚めることはないし。
逆に言えば、この映画にこなかった男性はおそらく、真の意味でのロリータではないんじゃないかと思います。まあ何が真かってのもよく分かりませんが。
(しかし幼いイリスが年長のビアンカに対して、歪んだ形での性愛を求めることはないと一体誰に言えるだろう? でもこの映画的にはそういうシチュエーションはあり得ないんだろうな。エコール的世界においては、ちびっ子は固い固いつぼみであって、一定の年齢に達するまでは性欲なんてものは存在し得ないみたいだから)

 ふと思ったのですが、この理屈は果たしてショタにも通じるものなんでしょうか。誰か少年版『エコール』作ってくれないかな。何か観たらぐっときてしまう自分がいそうで、たまらなく嫌なんですが。*1

*1:相方に「男はそもそもこんな閉鎖環境が成り立たない」と言われた。確かに。言葉を喋る動物にすぎない小学生男子だもの、大人しくブランコ乗ったりしないだろうし、飽きたら鉄板で塀越えて脱走するよなあ。