式での起立・斉唱を定めた都教委通達は「違憲」東京地裁

アサヒ・コムのニュースより。古くなっちゃったんで過去日記で。
まあ原告側の勝訴が喜ばしいことはそのとおりなんですが、当たりまえのことが当たりまえに認められるために、わざわざ裁判起こして判決を得なきゃならない世の中ってのはどーにも迂遠で面倒なものですね。まあこれが個人対個人の問題なら、高度に発達した立憲民主主義のあるべき姿だと嘯くこともできるんですが。
純粋に法律的な論点とすれば、(修正)特別権力関係の限界とか公共の福祉とか色々ありますが、ざっとぐぐってみたところ世論的には「国歌・国旗に対する歴史的認識の齟齬」と「教育の現場に対する正しい認識の欠如」が大方の判決の批判のポイントのようです。が、正直前者は議論の前提としてはどうでもいいと思います。(歴史認識の違いがあるのが大前提、その上でおらあ嫌なもんは嫌だと言えるのがまさに「思想・信条の自由」ってことだと思うんですけどね。「正しい」宗教的・歴史認識に基づいてこその「自由」なんて絵に描いた餅も甚だしい。)
後者については確かに憂慮する気持ちも分からなくもないです。教育の現場を目の当たりにしたことはないですが、最近の若者(このフレーズを使うたび、年とったんだなあと思います)を見かけるにつけ、「こいつらは大丈夫なのか?」と色んな意味で不安になる。(それは年寄り特有のおせっかいな部分もあるのだろうけど)そんな若者の前で教職員が「国歌なんか歌いたくないもんね」とそっぽを向いていたら、ただでさえ社会性の薄まった生徒達の非社会性をさらに助長するんじゃないか――って思ってるのかどうかは知りませんが、現場が混乱することは間違いないでしょうから。
が、混乱することの何が悪いんでしょうかね? その混乱が思想・信条の相違の先鋭化から来るのであれば、まさにそれは「違う思想を持つもの同士が共存する社会」を身をもって体験することになる。9.11以降、全世界がこの「他者との共存の難しさ」の壁にぶつかっているのだと、報道は言っているように思っていたんですが。混乱を逆手に取るという発想はないんでしょうかね。
大体混乱って言ったって、火炎瓶投げたりするわけじゃなし、消極的なポーズをとるだけなんだから、どんなにひどくても昨今の成人式ほどの非常識な混乱は起きないと思うけど。

とはいえどうせ高裁でひっくり返るんだろうなあ……。最高裁に期待、もあんまりできないかな。